忍者ブログ
  • 2024.03«
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • » 2024.05
[PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

【2024/04/26 19:20 】 |
but it doesn't matter
関係の無い話。

一日の終わりにシャワーを浴びる時、その日について考える事があります。
「出来る限りの事をしただろうか。もっと良い選択肢があったのではないか。」
今日をやり直す事は出来ませんが、そうして自省する事で少しは成長できるような気がするのです。

ただ、こうも思います。
「良い選択をしたとして、何が変わっていたのだろうか。」
今回は本当に瑣末な事を書いていきます。



仏教用語に「諦観」という言葉があります。
諦めるという言葉はここから生まれたとされていますが、しかし現代で使われる「諦める」の意味とは少しだけ使い方が違うらしいです。

何かを諦めると言うと、どうしてもマイナスのイメージが付き纏ってしまいます。中途半端で投げ出したり、失敗した事の言い訳になったりする事が殆ど。諦めろと言われ良い気分になる人は少ない事でしょう。

インドから伝わった原語「サットヤ」とは真理、明理等と言った意味であり、これは「諦」に繋がります。「観」と併せて、真理を見ると言う意味に。法話ではコレを「アキラカニミル」と言い、その物事一つよりむしろその背景を、そしてその周囲を見回せと伝えられるとか。

何か失敗、もしくは心を痛める出来事があったとして、何時までもその事実に捕らわれずその本質を見ろという意味で使われるのが本来の「諦める」。例えば背景を見て失敗の原因を見出し、同じ事を繰り返さない事が重要だという考え方ですね。

ただそれでも、悩まずにはいられません。
「諦めて」次に次に。やり残した事を探しながら急いで生きていますが、この頃は時間がそれ以上の速さで流れている錯覚すら覚えます。

どうしようもない周囲の変化。
諦めるとすれば、何を考えるべきなのでしょう。
PR
【2006/04/16 20:28 】 | 雑記 | 有り難いご意見(3) | トラックバック()
<<サーカスのクラウン。 | ホーム | 見えないものを見ようとしても>>
有り難いご意見
無題
もともとは「あからめる(明らめる)」らしいね。
【2006/04/17 06:41】| | 大佐 #986c457c1d [ 編集 ]


コメント有難うございます。
はい、ようこそいらっしゃいました。guestbookの方とは少しばかり応対が違うのがポイントです。

ご指摘の点ですが、その通り。
正しくは法話の「アキラカニミル」が時代と共に「アカラミル」や「アキラミル」と変わっていき、最終的に諦めるになったと伝わっています。

辞書によるのですが、諦めるの項目にはもう一つ、「明らめる」という記述を載せているものもあり、歴史的変遷が伺えます。ただ現在そちらを使うのは「諦める」の原語的な意味で使っている事を示唆する為が殆どで、その使用の頻度は低いものとなっています。

全ての言語に対して言えるのですが、言葉は須らく変わっていくもの。このような事を学ぶのは、とても面白い物ですね。

ほら、「萌え」とかも流行語になりましたし。
【2006/04/17 10:52】| | てぼると #92cbeae125 [ 編集 ]


Paul Lara
humpback unjovially heterocercy bighead semaphorical pelecypoda wrinkleproof companionate
<a href= http://www.humanrightsfirst.org/defenders/hrd_cuba/hrd_cuba.htm >Human Rights Defenders</a>
http://www.equinox-design.com

教育
【2007/12/18 18:51】| URL | Mona Gardner #10d8d66e0a [ 編集 ]


貴重なご意見の投稿















虎カムバック
トラックバックURL

前ページ | ホーム | 次ページ

忍者ブログ [PR]