人は差別が「好き」な生物である。
社会的なモラルから言えば、そんな事は無いと否定する人間が大半であるとは思いますし、「少なくとも私は」差別なんかした事が無い、なんていう人も居るのかもしれません。が、本当にそうなのでしょうか。
動物学者のコンラート・ローレンツは、われわれ人間はまさに仲間を攻撃(種内攻撃)する事によって文明を築いてきたと主張します。つまり、われわれ人間がペンギンや羊のように稠密な空間を他社と共有しながら互いに競争心などを抱かなったとしたら、いかなる文明も創造出来なかったとその著作の中で説明しています。
日常生活に置き換えてもこの主張は明解で、例えばある人間が技能的、知識的な向上を真摯に目指すほど、志の低い人間を嫌うのだと言います。また、自分の仕事や立場に誇りと自信を持っている人ほど貧しい仕事しかなしえない人を嫌い、その仕事が同じ領域であれば軽蔑すらするだろうと言います。コレこそがコンラートの言う種内攻撃の核心のようです。
このような考え方は他者からの評価を求める人間であれば当然起こりうる事である反面、先述の通り社会通念から否定されることが多いようです。心の奥には差別的な感情を持ちつつも、あたかも差別の無い人間であるかのように振舞う人間が増えているとかなんとか。性質の悪い事に、それは「自覚」されないのだとか。
一つの事例には、ある障害者は非常に親切な対応をされ、優しい言葉をかけられたが、過剰とも取れるそれらの行動を障害の無い人間との差異では無く、差別と捉えたのだといいます。
自分と「違う」人間である事を認めつつ、差別無く生きる事は意外と難しいのかもしれません。というか、差別感情そのものを完全に消し去る事は出来ない、または限りなく難しいと言うことが出来ると思います。社会慣習や制度が差別を助長する場合も多いですし、なにより理不尽に他人を嫌うというのは、ほぼ無意識のうちに行われている事が多いのですから。
なんだか長くなってきましたが、どんなもんでしょーね。
結局、宜しくやっていくしかないと言う結論ですが、それ程ややこしい問題だと言うことで一つ。
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